自身の家族のルーツを入り口に、土地の歴史や文化、人々の記憶をリサーチし、身体表現として立ち上げようとしている小松菜々子さんの活動支援を、人材育成メンバーの成田からご報告します。
道外出身者である小松さんは祖父の足跡を辿るリサーチの中で、先住民族アイヌの存在を感じつつも、その時代での関りが見えなかったことに、もやもやしたものを抱えていました。小松さんはレジデンスを開始した頃にウポポイ(民族共生象徴空間ウアイヌコㇿ コタン)に行き、博物館や公園施設だけでなく慰霊施設も訪れています。一方、小松さんと同じく道外出身である私・成田も札幌に移住してきてから形づくられてきた個人的な問題意識があります。それは、先住民族アイヌに対して和人(※1)の行ってきたこと・していることに向き合い、同じ和人のひとりとしてどのように自覚し行動するべきなのか、ということです。そんな私たちの想いが重なり、今回の先住民族アイヌと和人の歴史観を探るリサーチとなりました。
※1.「和人」とは、本州系日本人(日本人マジョリティ、ヤマト民族)と先住民族アイヌとを区別するための呼称(古くからの自称)
- 小松菜々子さんのWEBサイト
https://www.komatsu-nanako.com/
- 【審査結果のお知らせ】アーティストの創作活動支援プログラム
https://ais-p.jp/news/2025/09/12/artist/
小松さんは本州生まれ本州育ちですが、北海道の「開拓」に関係するルーツがあります。高祖父が入植開拓者1世で、北海道生まれ(どさんこ:道産子)のその孫が小松さんの祖父(入植開拓3世)になります。祖父は作家であり、北海道で小説を書かれていたそうです。小松さんは入植開拓3世である祖父の足跡を尋ね、リサーチを続けています。これは、「近代化」という激動の時代に、「開拓」された北海道で営まれた個人史・生活史を辿る旅でもあります。「近代化」には光と闇があります。「近代化」は富国強兵を推し進め、当時の日本(大日本帝国)は大きな戦争も起こしました。日本はたくさんのものを奪い、たくさんのものを失いました。その過程で北海道と名付けられたアイヌ民族が住む大地で行われたこと、現代にもつながる禍根の一端を想像するために、小松さんと私はリサーチに行くことにしました。
今回のリサーチが小松さんの今後の作品にどのように反映されるのか・されないのかは未知数です。反映されても表面上はわからないかもしれません。それでも、知ることからしか始まらないのだと、私たちは思いました。和人が「近代」以降の北海道を語るとき、例え個人史であっても、先住民族アイヌとの関りを無視することはできないと私たちは思っています。
同時代の歴史が、立ち位置の違いでどのように語られているのか、その違いを知るために数カ所の施設を訪れました。当初は北海道博物館にも行く予定でしたが、大雪の影響で移動が難しそうだったので、札幌市内中心部の地下鉄で移動できる範囲での数カ所を私の方から提案しました。
- 北海道博物館(今回は行けなかったけど)
https://www.hm.pref.hokkaido.lg.jp/

メモしながら、じっくりとパネルを読む小松さん
北海道立アイヌ総合センター
1.北海道立アイヌ総合センター
https://www.ainu-assn.or.jp/center.html
アイヌ総合センターは、アイヌ民族の歴史認識を深めることや文化の伝承、保存の促進を図ることなどを目的にかでる2.7に設置され、公益社団法人北海道アイヌ協会が指定管理者となり、アイヌ自らの情報を発信しています。北海道アイヌ協会は、北海道に居住しているアイヌ民族を主な構成員として組織し、「先住民族アイヌの尊厳を確立するため、人種・民族に基づくあらゆる障壁を克服し、その社会的地位の向上と文化の保存・伝承及び発展に寄与すること」を目的としています。
アイヌ総合センターには、アイヌ民族に関する様々な歴史資料が説明パネルと共に展示されています。アイヌの方々が使っていた民具や祭具、衣服や蝦夷錦だけでなく、北海道で出土した石器や縄文文化期の土器なども展示されています。説明パネルもアイヌ民族からの視点で書かれており、「開拓」以降のアイヌ民族が「苦しい生活を強いられた」ことなども、その理由と共に知ることができます。展示室の中央には、アイヌ民族の歴史を伝える「アイヌ史略年表」も掲示されています。

写真は、「維新政府により『開拓使』が設置された」以降の年表
北海道アイヌ協会が発行している冊子「アイヌ民族の概要―北海道アイヌ協会活動を含め―」にも詳細な「アイヌ民族の歴史<概要>」が掲載されています。こちらは、特に近現代の記載が充実しています。アイヌ総合センターもしくは隣の北海道アイヌ協会事務所で頂けます(無料)。私たちは、北海道が発行している「アイヌの人たちの歴史・文化・くらし」も一緒に頂きました。この冊子に参考資料として掲載されている「ガイド・解説検討のポジティブチェック・ネガティブチェック表」は、自分のふるまいを振り返ることにも活用できそうです。こちらのチェック表は、公益社団法人北海道観光機構が発行した「アイヌ文化・ガイド教本」に掲載されたもので、WEBサイトで確認できます。
- アイヌ文化・ガイド教本
https://visit-hokkaido.jp/ainu-guide/ainu_guide.pdf

2.赤れんが庁舎
https://www.hokkaido-redbrick.jp/
1869年(明治2年)に、明治政府が蝦夷地を北海道と改称し、開拓使を設置しました。以降、3県一局(函館県、札幌県、根室県、北海道事業管理局)時代を経て、1886年(明治19年)北海道庁が設置されました。赤れんが庁舎は北海道庁の庁舎として、1888年(明治21年)に完成しました。その後建物の改変や火災などがありましたが、復旧・復元改修工事が行われ、1969年(昭和44年)に国の重要文化財に指定されました。
国の重要文化財である赤れんが庁舎は、2025年に6年間の大規模改修工事が完成し、リニューアルオープンしました。有料ゾーンでは、部屋ごとに道内各地の魅力を伝える展示やアイヌ民族に関する展示室もあります。
2-1.アイヌ文化と歴史(2階)
デジタルサイネージやARを活用した体験型展示。柱型のデジタルサイネージではアイヌの方々の歌や踊りが上映されています。アイヌの方が唄う伝承歌が優しく響く空間になっていました。そして、その12本の柱の裏側に約3万年前の旧石器時代からの北海道における人々の営みが書かれています。アイヌ民族に関するテキストは、柱の後ろ以外にもデジタルサイネージに表示して読むことができます。

エリアごとの歌と踊りが上映されます
床一面に松浦武四郎が1859年(安政6年)に描いた「東西蝦夷山川地理取調図」、壁際に「首巻」(しゅかん 初巻)が展示されています。「首巻」には、松浦武四郎を案内したアイヌの方々の名前が記載されています。北海道庁のWEBサイトにある「東西蝦夷山川地理取調図(PDF)」には、現在は使用されない差別用語が記載されていることへの注意書きがあります。
- 東西蝦夷山川地理取調図(PDF) 北海道赤れんが庁舎ギャラリーより
https://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/ssk/legacyhokkaido/img/redbrick/ainu_sign_takesiro_map.pdf
2-2樺太関係資料室(地下1階)
モンゴル帝国の東征元帥府(軍事・行政機関)の設置(1250年ころ)から始まる「歴史で綴る樺太」が圧巻です。「1 先住民族の生活と国家への統合」の初めの方は、モンゴル帝国(元朝)や清朝、露(ロシア)側の史書から抜き出したものと思われます。徐々に幕府や松前藩の記載が多くなり「1807年 幕府、松前藩を転封させ西蝦夷地(カラフト含む)を直轄とし、(略)」以降、日本との関係での記述が多くなります。以降、「2 日本領期」「3 戦争末期から移住・引き揚げまで」と続き、「1951年 北海道に移住した多数の樺太アイヌが、知里真志保・NHKの調査に協力」が最後の記載となります。条約締結や戦争だけでなく、研究調査が行われたことなども記載されています。
次の部屋の入り口にある「歴史的・文化的遺産の伝承」パネルには、サハリン島(樺太島)はアイヌ民族だけでなく、先住民族ウィルタやニヴフのほか、エヴェンキ、ウリチ、サハなどのシベリア諸民族、そしてロシアや日本、朝鮮半島から移住した人々が混住し、和人が敷いた軍政・行政の歴史やその歴史観からはこぼれ落ちる人々の多様な営みがあることを記憶しておくべきことと書かれています。歴史年表だけでなく、各パネルの説明にも、その所信が反映されていると思いました。
余談ですが、「歴史で綴る樺太」には1913年の万国博覧会(大阪天王寺)に協力した方の氏名が記載されていることに驚きました(年表には万国博覧会となっていますが、その年に開催されたのは「明治記念拓殖博覧会」のようです)。この時も、1903年開催の万国博覧会(大阪天王寺)で問題になった学術人類館での「人間展示」と同じ展示手法がとられたようです。
- 「『樺太日日新聞』(1912-13年)掲載 サハリン先住民族と拓殖博覧会関係記事:目録と紹介」田村将人
https://nam.go.jp/wp/wp-content/uploads/2025/04/01b81665b0305e6cdcba069217971e4f.pdf
ちなみに、樺太関係資料室の隣にある北方領土展示室には、北方4島のそれぞれの島の名前がアイヌ語由来であること以外に、先住民族アイヌに関する記述は見つけられませんでした。
3.札幌村郷土資料室
「慶応2年(1866)年、札幌村は徳川幕府の命を受けた大友亀太郎によって開拓が進められました。用水路(大友堀)や道路の整備などを行い、入植者の定住化を図り、当時の土地を開拓した記録や入植者の記録などが多数残されています。」(北海道デジタルミュージアムより)

札幌村郷土資料館の外観
除雪もしっかりされていてありがたい
1869年(明治2年)、明治政府はそれまで「蝦夷地」と呼んでいた大地を「北海道」と改称し、その開拓と行政を担う官庁「開拓使」を設置しました。大友氏は開拓使設置よりも3年ほど早く、徳川幕府の命を受けて入植し(1866年 慶応2年)、用水路(大友掘)、道路、用水路などを整備し、1870年(明治3年)に退任し本州へ戻りました。大友堀の一部は創成川として、現在も札幌市内を流れています。
郷土資料館には、当時使用されていた(和人の)民具や農具、祭りの資料(丘珠獅子舞の獅子頭など)、1866年(慶応2年)以降の古文書や古地図も収蔵されています。郷土資料館の方が丁寧に説明してくれ、書籍なども見せてもらいました。
私は先住民族アイヌの足跡も知りたかったのですが、和人入植者の歴史を伝える「札幌村年表」には記載がなく、展示パネルにも「開拓」される前の札幌村周辺は「鮭の遡る川筋にアイヌの草小屋が点在する」という記述があっただけでした。説明をしてくれた郷土資料館の方に尋ねてみたところ、「数人のアイヌの方がどこからともなくやってきて、仕事をしてもらったりしたこともあったようですが、こちらに住んではいなかったようです」とのことでした。「元村開拓当時」のパネルには和人入植者しか記載されていません(御手作場:慶応2~3年、札幌新村:明治3年)。しかし、その後見せていただいた書籍に折りこまれていた札幌村(明治4年)の地図には、アイヌの方のお名前が記載されていました。
撮影した写真に関しては、個人的なSNS等での公開は問題ないとのことですが、公的な取材の場合は札幌市の許可が必要との説明を受けました。公的な取材は報道関係を指すと思われますが、AISプランニングのWEBサイトでの公開がどちらになるのかは、資料室の担当者もわからない様子だったので、ここでの展示内容の写真公開はしないことにします。下記のリンク先で、収蔵作品の一部を見ることができます。
- 北海道デジタルミュージアム 札幌村郷土資料館
https://hokkaido-digital-museum.jp/facility/sapporomura/
4.小松さんが考えたこと・感じたこと:小松菜々子さんより
1月の雪が降るなか、コーディネーターの成田さんに札幌市内のアイヌ民族に関連する展示施設を案内していただきました。
私の父方の高祖父は高知から函館へ、母方の曽祖母は秋田から八雲へ渡った開拓民でした。明治維新という大きな時代の転換期に、それまでの生活の維持が難しくなり、仕事を求めて新天地へと移動した一人です。しかし、その移動は、近代国家としての日本が推し進めたアイヌ民族の土地への植民地化と切り離すことができません。
北海道立アイヌ総合センターでいただいた資料(公益社団法人 北海道アイヌ協会発行の「アイヌ民族の概説ー北海道アイヌ協会活動を含めー」)によると、明治元年の北海道の人口は、アイヌ民族を含めて約6万人でしたが、大正7年には全道人口約210万人(内アイヌ民族は約1万7千人)と記載されていました。約50年のあいだに、特定の地域へ非常に多くの移民が流入したことがわかります。その途中経緯は赤れんが庁舎のパネルに詳しく記載されています。

「明治~大正~戦前 1869年-1945年」のパネルより
当時生まれた人口比率の急速な歪みは、形を変えながら現在にも連続し、将来にわたり非対称で不均衡な関係を生み続けているような気がします。
私は、移動によって生き延びてきた家族の歴史の延長線上に立っています。同時に、その移動が国家の政策と結びつき、誰かの土地の歴史と重なっていることも事実です。その複雑さを自分自身の問題として受け止めながら、知り続ける必要があると感じました。
丁寧に案内してくださった成田さんに感謝申し上げます。貴重な時間を本当にありがとうございました。
5.歴史を語る視点をみてみるために:成田の試み
歴史年表や展示パネルから同じ出来事の記述を並べてみると、表記に差異があるような気がします(当然ですが、展示スペースにより文字数制限の違いはあります)。比較して確認してみるために、「開拓」により先住民族アイヌが置かれた状況に関する記述と、樺太・千島のアイヌ民族の移住(戦後引き揚げは除く)についての記述を抜き出しました。
1.北海道立アイヌ総合センター(指定管理:北海道アイヌ協会)
・近代から現代までのあらまし(開拓政策が開始されたことによるアイヌ民族の生活の変化について)
アイヌ民族は、北海道開拓政策が進められたことで、土地や天然資源の利用範囲を著しく侵害され、苦しい生活を強いられました。
・アイヌ史略年表
1875年5月7日 「樺太千島交換条約」・同「付属公文」が批准された。
1875年10月 サハリン島のエンチウ108戸、841人が宗谷に移住させられた。
1876年6月 宗谷に移住のエンチウが石狩国対雁に強制的に再移住させられた。
1884年7月 クリルアイヌ97名が占守島から色丹島に強制的に移住させられた。
1878年11月4日 アイヌが行政上「旧土人」と呼称されることになった。
2.赤れんが庁舎:開拓使が廃止された後の北海道開拓の拠点となる北海道庁の庁舎
2-1.アイヌ文化と歴史(2階)
・明治~大正~戦前 1869年-1945年
アイヌ民族にも農業が奨励されましたが、与えられた土地は農地には向きませんでした。
北海道のアイヌ民族は日本国民に組み込まれ、日本語の使用、風習の禁止、改名、サケ漁やシカ猟の制限などを命じられ、生活の場である暮らしが奪われました。
1875(明治8)年、日本とロシアで結ばれた千島樺太交換条約によって、樺太からアイヌ民族が北海道へ、千島列島の占守島のアイヌ民族は色丹島へ移住させられました。
2-2.樺太関係資料室(地下1階)
・日本領期40年の歩み
(カラフトの先住民族は)日本帝国臣民として扱われつつも、本国出身者との間には待遇の違いがあり、また本来持っていた多くの権利を制限されるなど大きな影響を受けました。日本側は先住民政策を「保護政策」と位置付けていましたが、保護と言いつつも当事者の意思を問わない強制的なもので、先住民族にとって不本意な政策も多く含まれていました。
・歴史で綴る樺太
1875年 樺太千島交換条約が日露間で締結
樺太全島がロシア領、千島列島全島が日本領となる
これに伴い、北海道に千島アイヌ(84年、色丹島へ)と樺太アイヌ(75年宗谷へ、76年江別対雁へ)の一部が移住を余儀なくされた
3.札幌村郷土資料館
・札幌村年表や展示パネルには、「開拓」により先住民族アイヌが置かれた状況に関する記述なし
(エリアが違うので、樺太・千島のアイヌ民族の移住についての記述はない)
大多数の日本人(和人)は、先住民族アイヌについて触れずとも、自分たちの「開拓」以降の歴史を語ることができます。一方、アイヌ総合センターの「アイヌ史略年表」のように、先住民族アイヌの歴史のほとんどが和人による幕府・政府から引き起こされた出来事であり、松前藩の介入以降はその関りが大きく影響しています。新しい入植者である私は、この不均衡を自覚する必要があると思いました。
とはいえ新しい入植者である私は、「開拓」のために入植した和人先人たちの苦労や努力や、その結果を否定するつもりはありません。和人先人たちが新天地を求め、できうる限りの努力を続けてきたことは、幸せで豊かな暮らしを子孫に残したかったからだろうと想像できます。私は彼・彼女たちのその気持ちは尊重されるものだと思います。同時に、和人先人たちが求めた新天地には先住民族アイヌが居て、今も居るということを踏まえて、「開拓」以降のマジョリティである和人のふるまいを振り返る時がきているのではないかとも思いました。それは、なにを未来へ伝え残すかに関わることだと思うからです。小松さんのリサーチに私の個人的な問題意識を重ね合わせたような形ではありますが、このような機会を持てたことを、お互いに今後の活動に活かしていけたらと思っています。
尚、当記事内のアイヌ語表記は、原本となる年表やパネルに従いました。
人材育成メンバー 成田真由美